昭和48年3月30日 朝の御理解
御理解第28節「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは井戸替えをするに八、九分替えて退屈して止めれば掃除は出来ぬ。それで矢張り水は濁っておるようなもので信心も途中で止めれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで一心に壮健で繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
病気災難の根の切れるまでと、病気災難のやはり根が有るだけは間違い無い。それは様々な原因が有りましょうねえ。とても十、二十位の事では有りますまい。災難とか難儀に出合うと云うその元は簡単な事じゃなかろうと思いますけれども、それはよく私共には分かりませんけれども、そこに難儀がある災難がある。これはもう事実なのですからそれをお互い受けておるのですから。
ですからそれが、根の切れる迄の信心、そんならそれは只長く信心を続けて居る。もう親の代から子供の代、孫の代迄も信心が続いて居ると云うてもです、根の切れる程しのおかげを受けていないとすら、だからそういう信心が続いて居るだけではないと思う。
本当に根が切れる様な信心と云うのは どういう様な信心だろうか。まあそこを私共お道の信心者は申します、「私の方はめぐりが深い」「私もめぐりを持っるから、そのめぐりがそういう難儀と云う事になっておる」と。
そのめぐりそのものを、まあ大変な色々なその元と云うのは有りましょうけれども、それがきれいに井戸は清水になる様な迄のおかげを頂かねばならん。そういう信心とはそんならどういう様な事だろうか。只お参りしとればよい、永年続いて居ればよいと云う事じゃないと思うです。
昨夜は野口さんところの謝恩祭。年々歳々本当におかげを受けておられる姿と云うものが宅祭に反映するお祭りに拝まれる。本当に宅の御大祭だと云う感じが致します。
もう親戚中の方が集まられる。そして日頃信心の共励をし合う信心友達がみんな集まってそれこそ賑やかなお祭り、云うなら内容の充実したお祭りと云う感じのお祭りでした。お祭りが済んで私は皆さんにお話聞いて頂いたんですけれども、信心と云うものは火にも焼けない水にも流されない。それが信心なんだ。いつ突発的な事が起こって来るとも限らん。例えばそんなら合楽のお広前がこの様に立派に建立された。それがそんなら火事と云う事に出合ったらもう一夜のうちに灰になってしまう。
けれどもです、そんなら信心は焼けない。だから私共がですね、そのどういうところにあらして頂いても、そこから確信をもたせて頂くものはです、又その灰になったところから、そこの時点でです、そこから又おかげが頂けれると云う確信が信心です。よしそれが水に流されても信心は流されない。
ですからその形のものは流されても信心は流されない。しかもその信心は流された以上のもの、焼けた以上のものからその時点をもってです、頂いて行けれると云うこと。
信心しておれば災難に出合わないと云う事ではなく、それが災難を例えば、受けなければならない時であっても、その災難とか難儀とかと云う事がです、その事を通して一段と飛躍した信心に進んで行くことが出来る。おかげも勿論飛躍していくと云うおかげ。
病気災難は根の切れる迄一心に壮健で繁盛するよう元気な心で信心せよと云う事はそんな事。よりよいおかげを頂く事の為のお取り払いだと云う頂方なんです。そういう信心がここでは求められておる訳です。
又はそういう意味の事はないですけれども、このお言葉の裏にあるもの、根の切れる迄のそんなら信心をです、一心に壮健で繁盛するよう元気な心で信心せよとこう仰っておられる。
だからどうぞ、そんなら只一生懸命に繁盛するように元気な心でがむしゃらにお参りをする、一心にお縋りをすると云う事だけではない。云うならば、そこの時点をです、有難く受けると云う事が信心を流さなかったことになり、信心までも焼いて失うと云った様なことが無いと云うのがそれなんです。
信心しよるとにどうしてこういう事が起こってきただろうか、もう本当に難儀なことばっかり続いてと、そういう心で信心が何十年続けられても井戸は清水迄と云うおかげにはならない。
「お取り払いを頂いて有難い」そういう頂き方なんです。そういう信心がここで云う元気な心と云う事になる。元気な心でその事を合掌して受けて行くと云う事。
そういう心で壮健で又は繁盛するように願っていかなければならない。そういう意味で野口さんの信心を思うてみると、もう何かのたんびにおかげを受けておられると云う気がします。今日ああしておかげを頂いておられる。
私は昨日あちらでお食事の前、あちらの御主人と相対してお話を色々させて頂いた。初めて私は野口さんの眼鏡をとられた姿を・・・いつも眼鏡を掛けておられますから。
そしてまあ本当に素晴らしい人相だなと私は思いました。いいや初めはこうじゃなかった。段々信心をされる様になってむしろ若うなられたような感じがする。
私は様々な難儀に合われるたんびにです、そういう例えば、云うなら角が取れてくると云うか、いやみが取れてくると云うか、もう何とも純粋な、勿論器量もあんなにあんなさるがもう本当に素晴らしい、いわば器量だな、眼鏡を取られた人相を見て私はそう思いました。おかげを受けてこられたたんびに、しわが増えると云う事じゃないのです。何かに合われるたんびに、いわばしわがのびてきたと云った感じをまあそういう感じを私は受けたんです。それでみんなにもそれを話した事ですけれどもね。
例えば様々な難儀に打ち勝ち打ち勝ち一生懸命働きだしてきたと云う人達の場合なんかは、もうその頑固さと云うものがいよいよ表情に出て来るのが普通です。
信心でその時点その時点を信心で受けて行く。お取り払いを頂いて有難いという内容を持った受け方。
ですからそのたんびに野口さんの家は繁盛の一途を辿っておる。そして年々歳々成程有難いお祭りがあの様にして出来る様になられたと云う事。
私は病気災難は根の切れる迄、井戸は清水になっていってとる姿を昨夜野口さん所の謝恩祭に感じた。
それは私共沢山の御信者さんを知っとりますけれども、ひとつも根が切れていっていない御信者さんを余りに沢山知っておる。
それは只信心は続いておる。けれどもです、これ程信心するのにどうしてこんな事が起こってくるだろうかと云った様な内容で受けておるからです。これではね、井戸を繰り上げた事にならんのです。通っただけでは・・・・。
その難儀というものをです、やはりここに病気災難の根と云う事を仰っておられますから、病気災難の根と云うのは確かに有ることを私共は認めなければいけません。いわゆるめぐりの自覚に立たなければいけません。
でからそこに難儀なことが起こってきた時にです、火にも焼けない水にも流されないと云う信心を頂いとかにゃいかん。その信心とはです、お取り払いを頂いて有難いと云う信心なんです。
そのお取り払いを頂いて有難いと云うのがです、云うならばこうやって井戸を井戸替えをしておる汚いものを出しておるのですから、有難いと云う事になる。そういう信心からでなければ病気災難は根の切れる迄と云ったおかげにはならない。
だから信心させて頂いておれば、その難儀の受け方次第に依ってです、その難儀と云うのはより幸せの座と云うか、おかげの座への招待状だと云う様な事を先日の御理解に頂きました様に、そのよりおかげの座に着いて行けれるだけの信心を頂かなければいけない。 只難儀をどうやらこうやら切り抜けたと又内容としては、ほんに信心しよってどうしてうちはこげんふが悪いじゃろうかと云った様な思い方です。そういう思い方では井戸は清水にならないと云う事。根の切れる迄の信心をさせて頂くためには、一心にもうひたすらに神様にお縋りをしていくと云う元気な信心、そして繁盛を願わせて貰う、健康であることを願わせて貰う。
お礼心で一心になる。お礼心で願って居る。そういう信心でならなければ何十年信心しておっても井戸は清水になるまでと仰るようなおかげにならない。それは私が沢山知って居るお道の信奉者の方達の姿を見てそれを思う。 合楽で信心を頂き、御教導を頂いて本当に神様なればこそ神様のおかげなればこそ、この様にして信心を育てて頂くという頂方。その事をです、お取り払いとして本当に心からお礼の言えれる信心。その為に火にも焼けない水にも流されないと云う信心。
只ね、信心が続いて居るということじゃない。信心と云うものは、いよいよ燃え盛って居る、信心と云うものはいよいよ、素直と心と云うものはいよいよそのつどに本当なものになって来る。めぐりのお取り払いを頂いて有難いと云う様な心なんかはいよいよ素直な心、水の器に従うような素直な心。
そこからです、壮健で繁盛するように元気な心で信心せよと云う事はです、それは燃えるような心です。新たにいわば信心がその難儀なことがあったたんびに信心がが飛躍していくと云う。だから年々歳々有難い繁盛の一途を辿るおかげになってくる。そして病気災難は根の切れたのであろうかと思われる程しの有難い日々が過ごされるようになってくるのです。そういうおかげを頂かなければ金光様の信心を頂いて居る値打はない。
昨夜の野口さん所の宅祭を拝ませて頂ながらそれを感じた。だから例話として色々お話をしたんですけれども、今度のあちらの娘さんの赤ちゃんが出来られた。それはもう本当に隣知らずの安産と云う様な安産のおかげを頂いたけれども、その安産のおかげを頂く迄に兎に角病院が看護婦さんもござらにゃ産婆さんもござらんと云う様な産婦人科で、その人達は何処からか通うて来ておられる。それで来て貰うてから、それが不親切な事もう呼ぶたんびにぶーっとして来なさるそうですもんだから、頼みっかごたる感じ。そしてから初産じゃからそげんああたの慌てなさったっちゃ出来はせんと言うてから、もうそれこそ捨て台詞の様なこと言うて、自分方の家に帰ってしまわっしゃった。もうすずその後に産気づかれて出て来られた。だからそれ迄にお母さんが非常にイライラしたりジガジガしたりやっぱしておられる訳です。まあなんと不親切な病院じゃろうかと、出来る迄がそのイライラ、イライラ・・・
そういうおかげを頂きながら、まだジガジガしなければならないところにこれからの信心の焦点と云うものがです、もうそれもおかげを頂けれるところ迄、いかんじゃいけませんなと云うて他に二、三の例を取って話したことでした。そういう時こそ心配いらんバイとどん座れる信心。
丁度久留米の中村さんも見えておられましたから、中村さんが昨日ここでお届けされたことの例をもって話した。
伊万里におられる時、大変お世話になられた方が今度鳥栖の方へ機関在へ移転して見えられた。それでおにぎりを作って呉れと頼まれた。それでとうとうこちらの研修会にも御無礼してお取次を頂いて沢山のおにぎりを作ってもって行かれる約束をしておられた。
ところがおにぎりを作ろうと云うことになったら、隣に住んでおられるおばさんがお寿司屋さんに勤めておられる。ところがそのお寿司屋さんがその日はお休みで、そんなら私がにぎって加勢しようと云うてから専門屋さんがきれいにおにぎりを作って呉れた。
さあお取次を頂いて神様のお働きちゃ恐れ入ると云うて、鳥栖の方へ帰った。
まあ全然知らない鳥栖の町を尋ねて回ったけれども、もう尋ねても尋ねても誰も分からん。だからその駅の方で尋ねたけれども分からない。もうとうとうもう時間は追って来るしもう泣き出そうごとなったと云うその泣き出そうごとなったと云う一時間がもう大変な苦しい事であったらしい。そうしておる内にです、トラックが向こうからやって来た。そのトラックが何と伊万里の方から移転してきた人の車じゃった。それでまあ一緒におかげを頂いたとこう云うのである。
本当に私があの時にぐるぐる回っとったらとうとう合い出さんなりに折角握って行ったおにぎりをも間に合わんなりにしまえなければならない事だったけれども、兎に角おかげを受けたと云う話。
お取次を頂いて何と隣のお寿司屋に勤めているおばさんがその日は休みでおにぎりを作って貰うたと云う様な働き、又は最後は捜し求めておる相手の車が眼の前を通るというおかげ。
ところがその中の一時間は泣こうごと苦しいものであったという、こういうところをです、私共の信心不足と云うものを本当に心配する心で信心せよと教えておられますから、そこんところの信心がです、お取次を頂いてきておるのであるから大丈夫、よしそんならこのままがもうこのままお役に立たなくなっても、そこから又新たなおかげが頂いて行けるんだという確信と云うものがね、出来てこなければいけないという話をしたんです。
信心をさせて頂いているともう本当にです、神様のおかげと思わなければおられない事がその前後に必ず有る。それをおかげと、
ですから中の泣こうごと心配することもです、その中にも神様の御神意が有るのだ。そこで改まるところは改まり、お礼を申し上げるところはお礼を申し上げ、いいやお取次を頂いておる事であるからと心に安心の、安らぎのおかげを頂かせて貰えれる程しの信心と云うものがそこに求められる訳です。
だからそういう信心を目指させて頂くという、云うならその難儀から次のおかげまでのその間のところをです有難く受けて行く信心。それでなかったら井戸は清水になる迄と云うことにならない。
云うなら難儀をどうしてじゃない、神様がこうしておかげを下さると云うその頂き方こそが、井戸は清水になる迄と云う信心であると云う事を今日は聞いて頂きましたですね。 どうぞ。